御礼!映画「さつまおごじょ」上映&トークライブ
2021.11.08
去る11月7日(日)、靖國神社にて「映画『さつまおごじょ』上映&トークライブ」を無事に執り行うことが出来ました。
緊急事態宣言も解除されたというものの、通常の生活が戻らない中ではありましたが、お陰様で、ご招待者、一般来場者、スタッフも含め、約100人の方々にお越しいただき、会場は満席となりました。そして、ご登壇をいただきました、映画監督の柿崎ゆうじ監督、ジャーナリストの葛城奈海さん、そして、企画から本日まで、靖国神社様には大変お世話になりました。本当に有り難い限りです。また、当日、スタッフとしてお手伝いをいただきました皆様も心から御礼申し上げます。
映画「さつまおごじょ」で鳥濱トメさんを演じた伊藤つかささんや、赤羽礼子さんを演じた竹島由夏さん、薩摩おごじょの赤羽潤さんにもお越しいただき、本当に有り難うございました。
この日も、来場者皆様と本殿にて昇殿参拝をさせていただき、今日の日本の礎を築いた英霊に感謝の誠を捧げさせていただきました。その時の爽やかな風は英霊が、まるで私たちを歓迎してくれたかのような柔らかな風でした。
靖国神社には幕末の戊辰戦争以降、国のために戦死した246万余人の御霊がまつられていますが、そのうち213万人が大東亜戦争で亡くなられました。
昭和19年10月に特攻作戦が開始され、沖縄での陸軍による航空特攻作戦は、米軍主力が沖縄南西にある慶良間(けらま)列島に上陸した昭和20年3月26日から始まりました。
特攻作戦とは、「特別攻撃作戦」の意味で、他の戦闘と根本的に違う点が「必ず死ぬこと」が定められた作戦であるということです。
重さ250kgの爆弾を装着した戦闘機で敵の艦船に体当たりして沈めるという「必死」条件の作戦でした。
特攻作戦は、鹿児島県の知覧基地を始め、宮崎県の都城など九州の各地、そして当時日本が統治していた台湾など多くの基地から出撃しています。その全特攻戦死者1,036名。その中でも、知覧基地が本土最南端だったということもあり、439名と最も多く特攻作戦で戦死しています。
その知覧で「富屋食堂」を営み、その出撃前のわずかな日々を富屋食堂で過ごした10代から20代の若い特攻隊員達をわが子のように慈しみ、私財を投げ打ってまでも親身に接したのが「鳥濱トメ」さんでした。
映画「さつまおごじょ」は、その「トメ」さんの次女、赤羽礼子さんと、お孫さんの潤さんの物語で、昇殿参拝後に上映しました。
礼子さんの自宅を訪ねてきた元特攻隊員達との再会から物語は始まります。かつて富屋食堂で過ごした安らぎの時間や、戦友同然と慕う礼子さんに懐かしさを憶えた彼らは、毎晩礼子の自宅で酒を酌み交し、歌を唄いました。それから2年後、生き残った特攻隊員達の為に自分には何ができるか悩んでいた礼子さんは東京で「薩摩おごじょ」を開店させます。
戦後、生き残った特攻隊員たちの苦悩が描かれているシーンがあります。
「戦中は軍神ともてはやされ、戦後は軍国主義の象徴だ、特攻崩れだと散々蔑まれ、国民は特攻隊であった我々のことや、散っていった友のことを覚えてくれている者はいったいどれだけいるのか。我々は何のために戦ったのか」
戦後、これが現実であったと私は考えます。私の祖父も戦中、満州に赴き、戦後、日本に帰ってきました。戦争のことを語らなかった祖父に、中学生の時、私は思い切って戦争のことを聞いた際、このシーンと同じようなことを言っていたことを思い出しました。
しかし、赤羽礼子さんは、生き残った特攻隊員達にこのように言います。
「犬死なんかじゃない。(中略)戦争には負けたけど、日本はわずかな年月で復興したんです。平和になって戦争におびえず、希望のある生活を手に入れたんです。それは、国を護ろうとして、父母兄弟を護ろうとして、故郷を護ろうとして、自らの命を捧げてくれた人がいてくれたから今があるんです。そして、生き残ってくれた皆さん、あなた方がいてくれたから、あの、何にもなかった焼け野原から今日ここまで、こんなに早く復興できたんです」。
それを聞いた彼らは、次のように言うのです。
「俺たち、生き残ってよかったんだよな」。
戦後、生き残った特攻隊員達が鳥濱トメさんを訪ね、靖國で会おうと誓った仲間に顔向けができない、生きる気力がわかないと苦しみを吐き出したとき、トメさんはその生き残った特攻隊員たちにこう言ったと言います。
「なぜ、生き残ったのか考えなさい」と。
私が産経新聞社正論調査室に販売兼事業担当部長として勤務していた頃、「大東亜戦争を語り継ぐ会」というイベントを開催していました。
ジャーナリストの井上和彦さんをファシリテーターに、元軍人の方々に登場してもらっては、「あの戦争」の真実を語っていただきました。しかし、その頃に登壇してくださった、戦艦大和副砲長の深井俊之助さんや、本土防空に奮迅された竹田五郎さん、フィリピン特攻の直掩で最後の紫電改パイロットの笠井智一さん、ペリリュー島の戦いから帰還した土田喜代一さん、水上爆撃機「瑞雲」機長の加藤昇さん、そして、支那大陸を歴戦し、大陸打通作戦にも参加した常盤盛晴さんなど、この1,2年で次々に亡くなられています。本当に悲しい。そして、心からお悔やみを申し上げますとともに、英霊たちの歴史を正しく語り継いでいくためにはどうしたらよいかを考えさせられました。元軍人の方々から生のお話を聞くのが年々、難しくなると同時に、伝聞で伝えることが多くなります。伝聞で伝わる途中にプロパガンダが挟み込まれ、そのプロパガンダが正しい事実であるかのように、独り歩きし、それがあたかも本当のことのように「史実」として語られることは避けなければならない。そう思うのです。
映画上映後、この映画「さつまおごじょ」の映画監督の柿崎ゆうじ監督とジャーナリストで先日、アパ日本再興大賞を受賞した葛城奈海さんとのトークライブ「特攻隊が遺したもの」と題したトークライブでは、「日本人の本質とは何ぞや」を学ばせていただきました。「魂が乗らないと伝わらない」「背骨をしっかりと、私を律して、公のために尽くす心を育てる」「何かに依存していたら本物は作れない」など貴重なお話を聞かせていただきました。ご来場をいただきました皆様はどう感じられたでしょうか。ぜひ、お聞かせていただきたいと思います。
今回のトークライブの模様は11/21まで、アーカイブ配信をしております。
「寺子屋玉川未来塾HP」より「イベント」から「イベント履歴」をご覧ください。「「映画『さつまおごじょ』上映&トークライブ」のお知らせ」をクリックし、「ツイキャス」をクリックするとお手続きが可能となりますので、ご興味のある方は是非とも観ていただきたいと思います。
URLからですと、以下の通りです。
https://twitcasting.tv/g:104311280613070825878/shopcart/102156?fbclid=IwAR1_r56O-3LXaAEtTo4o9PIs6rW3gPKjkqWhPBV0vbgt4meOvEDwter73jk
そして、最後にご遺書を朗読させていただきました。
「陸軍中尉 久野正信(くの・まさのぶ)命」
正憲(まさのり) 紀代子(きよこ)へ
父ハ スガタコソミエザルモ イツデモ オマエタチヲ見テイル。
ヨク オカアサンノ イイツケヲマモッテ オカアサンニ シンパイヲ カケナイヨウニシナサイ、ソシテ オオキクナッタナレバ ジブンノスキナミチニスススミ リッパナ ニッポンジンニ ナルコトデス、ヒトノオトオサンヲ ウラヤンデハイケマセンヨ。 「マサノリ」「キョコ」ノオトオサンハ カミサマニナッテ フタリヲジット見テヰマス。フタリナカヨクベンキョウヲシテ オカアサンノシゴトヲテツダイナサイ。オトオサンハ 「マサノリ」「キヨコ」ノオウマニハナレマセンケドモ フタリナカヨクシナサイヨ。 オトオサハ オホキナジュウバクニノッテ テキヲゼンブヤッツケタゲンキナヒトデス。
オトオサンニマケナイヒトニナッテ オトオサンノカタキヲウッテクダサイ。
父ヨリ
マサノリ キヨコ フタリヘ
「海軍大尉 市島保男命」
ただ命を待つだけの軽い気持ちである。
隣の室で「誰か故郷を想はざる」をオルガンで弾いてゐる者がある。平和な南国の雰囲気である。
徒然なるまゝにれんげ摘みに出かけたが、今は捧げる人もなし。
梨の花とともに包み、僅かに思ひ出をしのぶ。夕闇の中を入浴に行く。
隣の室では酒を飲んで騒いでゐるが、それもまたよし。俺は死するまで静かな気持ちでゐたい。
人間は死するまで精進しつゝ゛けるべきだ。ましてや大和魂を代表するわれわれ特攻隊員である。その名に恥ぢない行動を最後まで堅持したい。
俺は、自己の人生は、人間が歩み得る最も美しい道の一つを歩んできたと信じてゐる。
精神も肉体も父母から受けたままで美しく生き抜けたのは、神の大いなる愛と私を囲んでゐた人々の美しい愛情のおかげであつた。今かぎりなく美しい祖国に、わが清き生命を捧げ得ることに大きな誇りと喜びを感ずる。
この、二柱のご遺書。目にたまる涙を、落とさずにいることができませんでした。
こうして、色んな方々に支えられ、イベントを開催し、今日まで至っている環境に、本当に「有り難い」という言葉以外に見つかる言葉がありません。心から感謝申し上げます。そして、改めましてありがとうございます。
そして、このイベントではご来場をいただきました皆様に、新宿三丁目の「薩摩おごじょ」での無料お食事券をプレゼントさせていただきました。それを持参し、ぜひ、足を運んでいただきたいと思います。また、このミニコミを読んでいただいています皆様も、足を運んでみてはいかがでしょうか。そこには、なでしこ隊として、特攻隊員たちのお世話をした、鳥濱トメさんの次女、赤羽礼子さんが草葉の陰から優しく微笑んで、皆さんをお待ちしているかと思います。そして、お国のために戦ってくれた英霊を憂いながら、薩摩焼酎とつけあげを食べ、「今の日本の礎を築いてくれてありがとう」と感謝の気持ちを申し上げると、清々しい、良い気持ちで酔うことができるかと思います。
緊急事態宣言も解除されたというものの、通常の生活が戻らない中ではありましたが、お陰様で、ご招待者、一般来場者、スタッフも含め、約100人の方々にお越しいただき、会場は満席となりました。そして、ご登壇をいただきました、映画監督の柿崎ゆうじ監督、ジャーナリストの葛城奈海さん、そして、企画から本日まで、靖国神社様には大変お世話になりました。本当に有り難い限りです。また、当日、スタッフとしてお手伝いをいただきました皆様も心から御礼申し上げます。
映画「さつまおごじょ」で鳥濱トメさんを演じた伊藤つかささんや、赤羽礼子さんを演じた竹島由夏さん、薩摩おごじょの赤羽潤さんにもお越しいただき、本当に有り難うございました。
この日も、来場者皆様と本殿にて昇殿参拝をさせていただき、今日の日本の礎を築いた英霊に感謝の誠を捧げさせていただきました。その時の爽やかな風は英霊が、まるで私たちを歓迎してくれたかのような柔らかな風でした。
靖国神社には幕末の戊辰戦争以降、国のために戦死した246万余人の御霊がまつられていますが、そのうち213万人が大東亜戦争で亡くなられました。
昭和19年10月に特攻作戦が開始され、沖縄での陸軍による航空特攻作戦は、米軍主力が沖縄南西にある慶良間(けらま)列島に上陸した昭和20年3月26日から始まりました。
特攻作戦とは、「特別攻撃作戦」の意味で、他の戦闘と根本的に違う点が「必ず死ぬこと」が定められた作戦であるということです。
重さ250kgの爆弾を装着した戦闘機で敵の艦船に体当たりして沈めるという「必死」条件の作戦でした。
特攻作戦は、鹿児島県の知覧基地を始め、宮崎県の都城など九州の各地、そして当時日本が統治していた台湾など多くの基地から出撃しています。その全特攻戦死者1,036名。その中でも、知覧基地が本土最南端だったということもあり、439名と最も多く特攻作戦で戦死しています。
その知覧で「富屋食堂」を営み、その出撃前のわずかな日々を富屋食堂で過ごした10代から20代の若い特攻隊員達をわが子のように慈しみ、私財を投げ打ってまでも親身に接したのが「鳥濱トメ」さんでした。
映画「さつまおごじょ」は、その「トメ」さんの次女、赤羽礼子さんと、お孫さんの潤さんの物語で、昇殿参拝後に上映しました。
礼子さんの自宅を訪ねてきた元特攻隊員達との再会から物語は始まります。かつて富屋食堂で過ごした安らぎの時間や、戦友同然と慕う礼子さんに懐かしさを憶えた彼らは、毎晩礼子の自宅で酒を酌み交し、歌を唄いました。それから2年後、生き残った特攻隊員達の為に自分には何ができるか悩んでいた礼子さんは東京で「薩摩おごじょ」を開店させます。
戦後、生き残った特攻隊員たちの苦悩が描かれているシーンがあります。
「戦中は軍神ともてはやされ、戦後は軍国主義の象徴だ、特攻崩れだと散々蔑まれ、国民は特攻隊であった我々のことや、散っていった友のことを覚えてくれている者はいったいどれだけいるのか。我々は何のために戦ったのか」
戦後、これが現実であったと私は考えます。私の祖父も戦中、満州に赴き、戦後、日本に帰ってきました。戦争のことを語らなかった祖父に、中学生の時、私は思い切って戦争のことを聞いた際、このシーンと同じようなことを言っていたことを思い出しました。
しかし、赤羽礼子さんは、生き残った特攻隊員達にこのように言います。
「犬死なんかじゃない。(中略)戦争には負けたけど、日本はわずかな年月で復興したんです。平和になって戦争におびえず、希望のある生活を手に入れたんです。それは、国を護ろうとして、父母兄弟を護ろうとして、故郷を護ろうとして、自らの命を捧げてくれた人がいてくれたから今があるんです。そして、生き残ってくれた皆さん、あなた方がいてくれたから、あの、何にもなかった焼け野原から今日ここまで、こんなに早く復興できたんです」。
それを聞いた彼らは、次のように言うのです。
「俺たち、生き残ってよかったんだよな」。
戦後、生き残った特攻隊員達が鳥濱トメさんを訪ね、靖國で会おうと誓った仲間に顔向けができない、生きる気力がわかないと苦しみを吐き出したとき、トメさんはその生き残った特攻隊員たちにこう言ったと言います。
「なぜ、生き残ったのか考えなさい」と。
私が産経新聞社正論調査室に販売兼事業担当部長として勤務していた頃、「大東亜戦争を語り継ぐ会」というイベントを開催していました。
ジャーナリストの井上和彦さんをファシリテーターに、元軍人の方々に登場してもらっては、「あの戦争」の真実を語っていただきました。しかし、その頃に登壇してくださった、戦艦大和副砲長の深井俊之助さんや、本土防空に奮迅された竹田五郎さん、フィリピン特攻の直掩で最後の紫電改パイロットの笠井智一さん、ペリリュー島の戦いから帰還した土田喜代一さん、水上爆撃機「瑞雲」機長の加藤昇さん、そして、支那大陸を歴戦し、大陸打通作戦にも参加した常盤盛晴さんなど、この1,2年で次々に亡くなられています。本当に悲しい。そして、心からお悔やみを申し上げますとともに、英霊たちの歴史を正しく語り継いでいくためにはどうしたらよいかを考えさせられました。元軍人の方々から生のお話を聞くのが年々、難しくなると同時に、伝聞で伝えることが多くなります。伝聞で伝わる途中にプロパガンダが挟み込まれ、そのプロパガンダが正しい事実であるかのように、独り歩きし、それがあたかも本当のことのように「史実」として語られることは避けなければならない。そう思うのです。
映画上映後、この映画「さつまおごじょ」の映画監督の柿崎ゆうじ監督とジャーナリストで先日、アパ日本再興大賞を受賞した葛城奈海さんとのトークライブ「特攻隊が遺したもの」と題したトークライブでは、「日本人の本質とは何ぞや」を学ばせていただきました。「魂が乗らないと伝わらない」「背骨をしっかりと、私を律して、公のために尽くす心を育てる」「何かに依存していたら本物は作れない」など貴重なお話を聞かせていただきました。ご来場をいただきました皆様はどう感じられたでしょうか。ぜひ、お聞かせていただきたいと思います。
今回のトークライブの模様は11/21まで、アーカイブ配信をしております。
「寺子屋玉川未来塾HP」より「イベント」から「イベント履歴」をご覧ください。「「映画『さつまおごじょ』上映&トークライブ」のお知らせ」をクリックし、「ツイキャス」をクリックするとお手続きが可能となりますので、ご興味のある方は是非とも観ていただきたいと思います。
URLからですと、以下の通りです。
https://twitcasting.tv/g:104311280613070825878/shopcart/102156?fbclid=IwAR1_r56O-3LXaAEtTo4o9PIs6rW3gPKjkqWhPBV0vbgt4meOvEDwter73jk
そして、最後にご遺書を朗読させていただきました。
「陸軍中尉 久野正信(くの・まさのぶ)命」
正憲(まさのり) 紀代子(きよこ)へ
父ハ スガタコソミエザルモ イツデモ オマエタチヲ見テイル。
ヨク オカアサンノ イイツケヲマモッテ オカアサンニ シンパイヲ カケナイヨウニシナサイ、ソシテ オオキクナッタナレバ ジブンノスキナミチニスススミ リッパナ ニッポンジンニ ナルコトデス、ヒトノオトオサンヲ ウラヤンデハイケマセンヨ。 「マサノリ」「キョコ」ノオトオサンハ カミサマニナッテ フタリヲジット見テヰマス。フタリナカヨクベンキョウヲシテ オカアサンノシゴトヲテツダイナサイ。オトオサンハ 「マサノリ」「キヨコ」ノオウマニハナレマセンケドモ フタリナカヨクシナサイヨ。 オトオサハ オホキナジュウバクニノッテ テキヲゼンブヤッツケタゲンキナヒトデス。
オトオサンニマケナイヒトニナッテ オトオサンノカタキヲウッテクダサイ。
父ヨリ
マサノリ キヨコ フタリヘ
「海軍大尉 市島保男命」
ただ命を待つだけの軽い気持ちである。
隣の室で「誰か故郷を想はざる」をオルガンで弾いてゐる者がある。平和な南国の雰囲気である。
徒然なるまゝにれんげ摘みに出かけたが、今は捧げる人もなし。
梨の花とともに包み、僅かに思ひ出をしのぶ。夕闇の中を入浴に行く。
隣の室では酒を飲んで騒いでゐるが、それもまたよし。俺は死するまで静かな気持ちでゐたい。
人間は死するまで精進しつゝ゛けるべきだ。ましてや大和魂を代表するわれわれ特攻隊員である。その名に恥ぢない行動を最後まで堅持したい。
俺は、自己の人生は、人間が歩み得る最も美しい道の一つを歩んできたと信じてゐる。
精神も肉体も父母から受けたままで美しく生き抜けたのは、神の大いなる愛と私を囲んでゐた人々の美しい愛情のおかげであつた。今かぎりなく美しい祖国に、わが清き生命を捧げ得ることに大きな誇りと喜びを感ずる。
この、二柱のご遺書。目にたまる涙を、落とさずにいることができませんでした。
こうして、色んな方々に支えられ、イベントを開催し、今日まで至っている環境に、本当に「有り難い」という言葉以外に見つかる言葉がありません。心から感謝申し上げます。そして、改めましてありがとうございます。
そして、このイベントではご来場をいただきました皆様に、新宿三丁目の「薩摩おごじょ」での無料お食事券をプレゼントさせていただきました。それを持参し、ぜひ、足を運んでいただきたいと思います。また、このミニコミを読んでいただいています皆様も、足を運んでみてはいかがでしょうか。そこには、なでしこ隊として、特攻隊員たちのお世話をした、鳥濱トメさんの次女、赤羽礼子さんが草葉の陰から優しく微笑んで、皆さんをお待ちしているかと思います。そして、お国のために戦ってくれた英霊を憂いながら、薩摩焼酎とつけあげを食べ、「今の日本の礎を築いてくれてありがとう」と感謝の気持ちを申し上げると、清々しい、良い気持ちで酔うことができるかと思います。
先人に学ぶ安全保障
2021.10.01
日本を取り巻く安全保障環境は、日に日に厳しさを増しており、中国は野望を露わにして、尖閣諸島を取りに来ている。
歴史を振り返ってみると、明治期において、帝国主義列強諸国は、植民地政策として、アジア諸国に侵略を進めていたが、日本は国家の危機を脱却するため、中央集権的な国家体制の形成に成功した。
その明治維新後の日本に、甚大なる成果を成し遂げた、先人の中でも以下の3人に着目し、今こそ明治維新のリアリズムに学ぼうと思う。
・福澤諭吉
言わずも知れた人物であるが、福澤といえば「文明開化」なる用語を編み出し、著作『西洋事情』『文明論之概略』により維新期日本の欧化政策に絶大なる寄与をなした啓蒙思想家である。その福澤の思想的立脚点の一つが「立国は私なり、公に非ざるなり」(「痩我慢之説」)であった。
帝国主義列強がアジアを蚕食する一方、支那、朝鮮がこの「西力東漸(とうぜん)」の国際政治力学を理解できず「旧套(きゅうとう)」の中に「窒塞(ちっそく)」するという現状を前にして、福澤は「公」(コスモポリタニズム)ではなく「私」(ナショナリズム)の強化こそが「立国の公道」であることを、激情をもって訴えた。
文明は普遍である。この原理において欧米は日本より先んじているとはいえ、普遍には遠い。この段階にあっては、国家という存在と忠君愛国なる「私情」が不可欠である。確執限りなき内外条件からすれば「自国の衰頽に際し、敵に対して固(もと)より勝算なき場合にても、千辛万苦(せんしんばんく)、力のあらん限りを尽し、いよいよ勝敗の極に至りて、始めて和を講ずるか、若しくは死を決するは、立国の公道にして、国民が国に報ずるの義務と称す可きものなり」と語り、これを痩我慢の説だと銘じた。
人間という存在は、他の生命体と同じくその根本においては私であり、個の私情こそが至上の価値をもつ。しかし外国に対する場合には必ずや同胞としての私情が湧出し、国民としての私情すなわちナショナリズムという「偏頗(へんぱ)心」が優位を占めなければならないと福澤は説く。私情といい偏頗心というからには普遍としての文明からは隔たる心理ではあるが、各国民が私情と偏頗心を露わにしている以上、自らもこれを重んじなければ国はもたないと主張する。
福澤は好戦主義者ではない。学問を究めて高尚なる人間として「一身独立」し、もって「一国独立す」べきことを説き、「独立の気力なき者は、国を思ふこと深切ならず」と論じて、独立不羈(ふき)の国民育成の緊急性を生涯にわたって主張しつづけた人物であった。
今、現代の極東アジア地政学は幕末・維新期を再現させるかのごとくに剣呑な状況に入らんとしている。他国が自国の領域を平然と侵害する現状を拱手(きょうしゅ)傍観し、集団的自衛権のあれほど限定的な行使容認までに異を唱えるというのであれば、福澤はその「文明の虚脱」に泉下で深い慨嘆の息を吐いているのに違いないと考えるものであり、福澤が唱えるこれらの意義は、現在においても通ずるものでもあり、無視できないものである。
・陸奥宗光
政治指導者に求められる資質にはさまざまなものがあろうが、最も重要な条件は国家的危機に予見し、これに迅速に対処する能力の如何である。開国・維新から日清・日露戦争に至る緊迫の東アジア地政学の中に身をおいたあまたの指導者のうち、位を極めたものはこの資質において傑出し、象徴的な政治家が陸奥宗光である。
近代日本の最初の本格的な対外戦争である日清戦争に勝利し、下関で日清講和会議が開かれ、一進一退の攻防の末に条約調印に辿り着いた。しかし、講和条約によって割譲を受けた遼東半島の清国還付を強圧する露仏独の三国干渉が始まったのは、そのわずか一週間後のことであった。この三国干渉は、首脳部を徹底的に困惑させた。肺結核の業病に苦しみ、病に伏していた陸奥を訪れた伊藤博文との協議により、三国干渉の屈辱に甘んじることを決し、明治天皇による遼東半島還付の詔宣が出されたのは、三国干渉の開始から詔宣までの期間はわずか18日であった。「進むべしと判断した時には全力を持って相手に挑み、志ならず後退を余儀なくされた時には潔く身を引いて、次の好機に向け万全の体制を整える」。かかる政治家としての資質の在処を知る言葉である。
日清戦争は言わずもがなだが、ロシアの南下政策を予測し、華夷秩序から朝鮮を引き剥がして朝鮮の自立を図らなければ、極東における日本の安寧はありえない。それゆえ、第三国の干渉を排して朝鮮自立の方策を立案し、さらには日清共同改革案を練り上げ、これが清国に拒否されるや、全力を清国との戦いに注ぎ込んでいこうという、外交官としての陸奥宗光の深い熟慮と迅速な判断、加えてその豪気には改めて目を見張らされるものがある。
・小村寿太郎
小村寿太郎は明治33(1900)年2月に駐露公使に任用され、明治34(1901)年1月に北京に赴任。義和団事件対処の全権を与えられ、同年12月には駐清行使となった。小村はただちに清国皇帝・慶親王に謁見、義和団事件終息における露清協定を締結してはならない、ロシアの満州撤兵の約束をすぐ実行すべきだと進言。小村は日本の外務省を動かし、外務大臣ウラジミール・ラムズドルフに露清協定の有無を改めて問わせ、協約が事実であれば、その釈明を求めるよう迫った。しかし、ラムズドルフの回答は、木で鼻をくくったようなものであった。
露清協定は絶対にこれを認めないという小村の意思は固く、英独両国に対して「我が政府は協約案の撤回をもって列国全体の利益のために望ましきものと確信し、清国に対し指定の期限内に調印することなく、露国をしてこれを撤回するにいたらしむべきを勧告すべく、これについて英独両国政府と共同せんことを欲す」と働きかけ、同意を得た。
清国は、結局のところ、自力ではどうすることもできず、外国の力を乞い、辛うじて窮状を脱することができたのである。露清協定は廃案となり、ひとまず満州は安定した。そして、小村は日英同盟締結へと尽力する。日英同盟の成立は、明治35(1902)年1月30日。この同盟の日本にとっての目的は、清国の領土保全、朝鮮の自主独立であった。その根本は、ロシアに対する日本の安全保障の確立である。
小村は、明治期の政治家の一大資質たる「国権主義」を絵に描いたような人物であった。外交舞台は終始一貫、満州問題であり、この地に対するロシアの野心を砕くことに専心した。ロシア陸軍の協力にして残忍なることを知る小村は、日本が独力でこれに抗するのではなく、ロシアを共同の敵とする利害等しき他国と同盟して、ことに構えるべきだと考えていた。そして、ロシア協商論(満韓交換論)者の伊藤博文・井上馨に対し、対露強硬論者の桂太郎・小村寿太郎の論戦は有名であるが、元老会議において意見を戦わし、元老の主張にも一歩も引かない論戦を展開した。そんな逸話は数知れず。そして、日露戦争に突入し、辛勝した日本の講和条約へと向かう。その交渉力はまさしく獅子奮迅の如しである。
日本を取り巻くアジア地政学の現在をどう読み解くか。振り返っておくべきは、極東アジアの近現代史である。近代日本における最大のテーマは、巨大なユーラシア大陸の中国、ロシアに発し、朝鮮半島を伝わって張り出す「等圧線」からいかにして身を守るか、にあった。
現在の中国は、国際上秩序を無視して、力による海洋の現状変更に強固な態度を崩さない。北朝鮮は幾度となく核実験、ミサイル発射を敢行している。
渡辺利夫拓殖大学顧問の著書『決定版 脱亜論』で福沢諭吉に触れ、以下のように記している。
「明治11年の『通俗国権論』において福澤は『大砲弾薬は以て有る道理を主張する備えに非ずして無き道理を造るの器械なり』という。
『無き道理を造』ろうとしている中国と北朝鮮に、国際法を順守せよといっても、所詮は“蛙の面に水”である。『苟も独立の一国として、徹頭徹尾、外国と兵を交ゆべからざるものとせば、猶一個人が畳の上の病死を覚悟したるが如く、即日より独立の名は下すべからざるなり』という。
外交が重要であるのはいうまでもないが、弓を『引て放たず満を持するの勢を張る』国民の気力と兵力を後ろ盾に持たない政府が、交渉を通じて外交を決することなどできはしない、と福澤はいう。極東アジアの地政学的リスクが、開国・維新期のそれに酷似する極度の緊迫状況にあることに思いをいたし、往時の最高の知識人(福澤諭吉)が、何をもって国を守ろうと語ったのか、真剣な眼差しでこのことを振り返る必要がある」と。
評論家の江崎道朗氏が説く「DIME」の考え方は、今、考えれば、明治期には実践され、そして、戦前のインテリジェンスは、今よりも精度が高いものであった。現在の我々との違いの最たるものは、「死と隣合わせであったか否か」であると考える。戦争もなく、憲法9条に守られていると誤解を晴らそうともしない、そして、危機感がない現代社会において、明治期における安全保障と比べ物にならないかもしれないが、少なくとも、危機を脱したそこには、日本を護るという「気概」と何ものにも屈しない「独立不羈」の精神があった。故に、法整備及び防衛力、経済力増はさることながら、国民一人一人が日本を護る気概を確立する必要があるということに至り、現状における日本の危機に対し、先人の学ぶべき数多い「先例」は「安全保障国難」を打開する一つであると考える。
歴史を振り返ってみると、明治期において、帝国主義列強諸国は、植民地政策として、アジア諸国に侵略を進めていたが、日本は国家の危機を脱却するため、中央集権的な国家体制の形成に成功した。
その明治維新後の日本に、甚大なる成果を成し遂げた、先人の中でも以下の3人に着目し、今こそ明治維新のリアリズムに学ぼうと思う。
・福澤諭吉
言わずも知れた人物であるが、福澤といえば「文明開化」なる用語を編み出し、著作『西洋事情』『文明論之概略』により維新期日本の欧化政策に絶大なる寄与をなした啓蒙思想家である。その福澤の思想的立脚点の一つが「立国は私なり、公に非ざるなり」(「痩我慢之説」)であった。
帝国主義列強がアジアを蚕食する一方、支那、朝鮮がこの「西力東漸(とうぜん)」の国際政治力学を理解できず「旧套(きゅうとう)」の中に「窒塞(ちっそく)」するという現状を前にして、福澤は「公」(コスモポリタニズム)ではなく「私」(ナショナリズム)の強化こそが「立国の公道」であることを、激情をもって訴えた。
文明は普遍である。この原理において欧米は日本より先んじているとはいえ、普遍には遠い。この段階にあっては、国家という存在と忠君愛国なる「私情」が不可欠である。確執限りなき内外条件からすれば「自国の衰頽に際し、敵に対して固(もと)より勝算なき場合にても、千辛万苦(せんしんばんく)、力のあらん限りを尽し、いよいよ勝敗の極に至りて、始めて和を講ずるか、若しくは死を決するは、立国の公道にして、国民が国に報ずるの義務と称す可きものなり」と語り、これを痩我慢の説だと銘じた。
人間という存在は、他の生命体と同じくその根本においては私であり、個の私情こそが至上の価値をもつ。しかし外国に対する場合には必ずや同胞としての私情が湧出し、国民としての私情すなわちナショナリズムという「偏頗(へんぱ)心」が優位を占めなければならないと福澤は説く。私情といい偏頗心というからには普遍としての文明からは隔たる心理ではあるが、各国民が私情と偏頗心を露わにしている以上、自らもこれを重んじなければ国はもたないと主張する。
福澤は好戦主義者ではない。学問を究めて高尚なる人間として「一身独立」し、もって「一国独立す」べきことを説き、「独立の気力なき者は、国を思ふこと深切ならず」と論じて、独立不羈(ふき)の国民育成の緊急性を生涯にわたって主張しつづけた人物であった。
今、現代の極東アジア地政学は幕末・維新期を再現させるかのごとくに剣呑な状況に入らんとしている。他国が自国の領域を平然と侵害する現状を拱手(きょうしゅ)傍観し、集団的自衛権のあれほど限定的な行使容認までに異を唱えるというのであれば、福澤はその「文明の虚脱」に泉下で深い慨嘆の息を吐いているのに違いないと考えるものであり、福澤が唱えるこれらの意義は、現在においても通ずるものでもあり、無視できないものである。
・陸奥宗光
政治指導者に求められる資質にはさまざまなものがあろうが、最も重要な条件は国家的危機に予見し、これに迅速に対処する能力の如何である。開国・維新から日清・日露戦争に至る緊迫の東アジア地政学の中に身をおいたあまたの指導者のうち、位を極めたものはこの資質において傑出し、象徴的な政治家が陸奥宗光である。
近代日本の最初の本格的な対外戦争である日清戦争に勝利し、下関で日清講和会議が開かれ、一進一退の攻防の末に条約調印に辿り着いた。しかし、講和条約によって割譲を受けた遼東半島の清国還付を強圧する露仏独の三国干渉が始まったのは、そのわずか一週間後のことであった。この三国干渉は、首脳部を徹底的に困惑させた。肺結核の業病に苦しみ、病に伏していた陸奥を訪れた伊藤博文との協議により、三国干渉の屈辱に甘んじることを決し、明治天皇による遼東半島還付の詔宣が出されたのは、三国干渉の開始から詔宣までの期間はわずか18日であった。「進むべしと判断した時には全力を持って相手に挑み、志ならず後退を余儀なくされた時には潔く身を引いて、次の好機に向け万全の体制を整える」。かかる政治家としての資質の在処を知る言葉である。
日清戦争は言わずもがなだが、ロシアの南下政策を予測し、華夷秩序から朝鮮を引き剥がして朝鮮の自立を図らなければ、極東における日本の安寧はありえない。それゆえ、第三国の干渉を排して朝鮮自立の方策を立案し、さらには日清共同改革案を練り上げ、これが清国に拒否されるや、全力を清国との戦いに注ぎ込んでいこうという、外交官としての陸奥宗光の深い熟慮と迅速な判断、加えてその豪気には改めて目を見張らされるものがある。
・小村寿太郎
小村寿太郎は明治33(1900)年2月に駐露公使に任用され、明治34(1901)年1月に北京に赴任。義和団事件対処の全権を与えられ、同年12月には駐清行使となった。小村はただちに清国皇帝・慶親王に謁見、義和団事件終息における露清協定を締結してはならない、ロシアの満州撤兵の約束をすぐ実行すべきだと進言。小村は日本の外務省を動かし、外務大臣ウラジミール・ラムズドルフに露清協定の有無を改めて問わせ、協約が事実であれば、その釈明を求めるよう迫った。しかし、ラムズドルフの回答は、木で鼻をくくったようなものであった。
露清協定は絶対にこれを認めないという小村の意思は固く、英独両国に対して「我が政府は協約案の撤回をもって列国全体の利益のために望ましきものと確信し、清国に対し指定の期限内に調印することなく、露国をしてこれを撤回するにいたらしむべきを勧告すべく、これについて英独両国政府と共同せんことを欲す」と働きかけ、同意を得た。
清国は、結局のところ、自力ではどうすることもできず、外国の力を乞い、辛うじて窮状を脱することができたのである。露清協定は廃案となり、ひとまず満州は安定した。そして、小村は日英同盟締結へと尽力する。日英同盟の成立は、明治35(1902)年1月30日。この同盟の日本にとっての目的は、清国の領土保全、朝鮮の自主独立であった。その根本は、ロシアに対する日本の安全保障の確立である。
小村は、明治期の政治家の一大資質たる「国権主義」を絵に描いたような人物であった。外交舞台は終始一貫、満州問題であり、この地に対するロシアの野心を砕くことに専心した。ロシア陸軍の協力にして残忍なることを知る小村は、日本が独力でこれに抗するのではなく、ロシアを共同の敵とする利害等しき他国と同盟して、ことに構えるべきだと考えていた。そして、ロシア協商論(満韓交換論)者の伊藤博文・井上馨に対し、対露強硬論者の桂太郎・小村寿太郎の論戦は有名であるが、元老会議において意見を戦わし、元老の主張にも一歩も引かない論戦を展開した。そんな逸話は数知れず。そして、日露戦争に突入し、辛勝した日本の講和条約へと向かう。その交渉力はまさしく獅子奮迅の如しである。
日本を取り巻くアジア地政学の現在をどう読み解くか。振り返っておくべきは、極東アジアの近現代史である。近代日本における最大のテーマは、巨大なユーラシア大陸の中国、ロシアに発し、朝鮮半島を伝わって張り出す「等圧線」からいかにして身を守るか、にあった。
現在の中国は、国際上秩序を無視して、力による海洋の現状変更に強固な態度を崩さない。北朝鮮は幾度となく核実験、ミサイル発射を敢行している。
渡辺利夫拓殖大学顧問の著書『決定版 脱亜論』で福沢諭吉に触れ、以下のように記している。
「明治11年の『通俗国権論』において福澤は『大砲弾薬は以て有る道理を主張する備えに非ずして無き道理を造るの器械なり』という。
『無き道理を造』ろうとしている中国と北朝鮮に、国際法を順守せよといっても、所詮は“蛙の面に水”である。『苟も独立の一国として、徹頭徹尾、外国と兵を交ゆべからざるものとせば、猶一個人が畳の上の病死を覚悟したるが如く、即日より独立の名は下すべからざるなり』という。
外交が重要であるのはいうまでもないが、弓を『引て放たず満を持するの勢を張る』国民の気力と兵力を後ろ盾に持たない政府が、交渉を通じて外交を決することなどできはしない、と福澤はいう。極東アジアの地政学的リスクが、開国・維新期のそれに酷似する極度の緊迫状況にあることに思いをいたし、往時の最高の知識人(福澤諭吉)が、何をもって国を守ろうと語ったのか、真剣な眼差しでこのことを振り返る必要がある」と。
評論家の江崎道朗氏が説く「DIME」の考え方は、今、考えれば、明治期には実践され、そして、戦前のインテリジェンスは、今よりも精度が高いものであった。現在の我々との違いの最たるものは、「死と隣合わせであったか否か」であると考える。戦争もなく、憲法9条に守られていると誤解を晴らそうともしない、そして、危機感がない現代社会において、明治期における安全保障と比べ物にならないかもしれないが、少なくとも、危機を脱したそこには、日本を護るという「気概」と何ものにも屈しない「独立不羈」の精神があった。故に、法整備及び防衛力、経済力増はさることながら、国民一人一人が日本を護る気概を確立する必要があるということに至り、現状における日本の危機に対し、先人の学ぶべき数多い「先例」は「安全保障国難」を打開する一つであると考える。
自民党総裁選について
2021.09.30
今回は自民党総裁選について(9月30日寄稿)。政局について語るのは自分としては本意ではないのだが、今回は触れることとした。
9月29日、自民党総裁選で岸田文雄前政調会長が新総裁に選ばれた。
まずは、菅義偉首相については、首相就任後、1年余りにわたり、コロナ対策をはじめ、デジタル庁、安全保障環境、皇位継承問題など、日本にとって、とても重要な案件を、日本が歩むべく道に方向性を示してくださり、心から感謝を申し上げたい。そして、お疲れ様でした。
今朝の産経新聞にとても大切で参考になる記事が多いので、所々、引用させていただきたい。
今回の総裁選は、政策通の4人が、激しい論戦を繰り広げ、とても良い総裁選であったと感じた。その中でも、高市早苗前総務相、そして、私とは考え方は違うが野田聖子幹事長代行には、堂々と自分の政治信念を貫き、持論を展開し、立派に戦い抜き、政治信念を曲げた河野太郎ワクチン担当相と大きな差を良い方に感じた。
野田氏は、リベラル色は強いが、しっかりと政策論争ができるし、野田ファンが多いということも納得できるし、実感できた。
高市氏は次につながる敗戦でもあった。特に、本命視されていた河野氏の得票を、議員票で28票も上回ったのは予想外だった。また、結果報告会に出席した安倍晋三前首相が「私たちは高市氏を通じて、本来自民党はどうあるべきか、しっかりと訴えることができた。他の候補にも影響を与えた」と語り、高市氏も「私は歩みを止めない。政策を磨き上げ、また次に向かって一緒に歩んでくださることをお願いする」と語った。次へと望みを繋げたのはとても大きい。
私は、今回の総裁選に当たり、次の論点に注目していた。
①コロナ対策
②経済政策
③安全保障政策
④皇位継承問題
特に「皇室問題」は日本国の一丁目一番地。「男系男子」による皇位継承であるべきで、先例のない「女系天皇」はあってはならないというのが、私の考えである。以前にも書いているが、皇位継承問題で大事にしなければならない原則があり、それは「①先例②男系③直系」である。この3つはどれが欠けても皇室の歴史は語れない。そして、大事なのが順番である。故に、歴史を守る方法は先例から探すべきなのだ。このことは、今後、とても重要なキーワードになるので、読者の皆様の頭にもしっかりと入れておいていただきたい。
新総裁になった岸田氏は9月8日の産経新聞のインタビューで、総裁任期中に憲法改正を目指すと強調。皇位継承は「『女系天皇』以外の方法で考えるべきだ」と明言した。私としては、少し安堵した。安全保障分野では弾道ミサイルを相手領域内で阻止する「敵基地攻撃能力」の保有を主張し、安倍氏と歩調を合わせている。
とはいえ、岸田氏はリベラル色が強い宏池会の流れを汲む。本日の産経新聞には「岸田派内には、こうした安保政策に懸念の声があり、保守勢力が警戒する選択的夫婦別姓への賛成論も根強い。対応を誤れば総裁選勝利の原動力となった保守勢力が離れる可能性がある」と。岸田派は46人にとどまり、党内第5派閥。岸田氏を支える勢力としては少数派である。派閥外にも協力者を募らなければ、政権は維持できないだろうと考える。そのためには、安倍・麻生両氏の協力を求めることは必要不可欠であろう。
まずは10月24日投開票の参院静岡、山口両選挙区の補欠選挙、そして11月までに行われる衆院選を勝利に導き、総裁選での訴えを着実に実現し、支持基盤を盤石にすることが急務となる。
一方の河野氏は「女系容認派」で、しかも、年金、安全保障などに関する曖昧な発言だけでなく、テレビ出演時などで見せたすぐキレる姿や高飛車で乱暴な口の利き方には、観ていて不愉快になったことだけでなく、平成24年の総裁選で、当初は本命候補だった石原伸晃元幹事長が、軽い発言で失速していったのと重なってみえた。そして、失速。ある意味、当然と言えば当然だが、全国の党員党友票が一番であることに違和感を覚えている。はたして、どういった種の自民党員なのか。リベラルなのか、保守なのか。構成員の種別を知りたい。
高市氏の総裁選出馬はある意味、「河野氏潰し」でもあり、「自民党保守路線の立て直し」でもあったのではないかと感じる。「阿比留瑠比の極言御免」での言葉を引用させていただくと、「選対本部に入るなど表立つことはせずに、高市氏を支援した安倍晋三前首相は数日前、周囲に語った。『高市さんは自分で運をつかんだ。彼女は私と勉強会をしていたことや、私にもう一度総裁選に出るよう要請して断られたことを、あえて(8月26日のBS日テレ番組で)明らかにした。それにより、行き場を失っていた岩盤保守層の支持を集めた』。それまでの安倍氏は、総裁選候補がリベラル派ばかりになることを危惧していた。直近の衆院選に向け、ただでさえ自民党から心が離れる傾向にあった保守層が、ますますそっぽを向きかねないからである。ただ当初は、高市氏が総裁選出馬に意欲を示していることについては『彼女は他の議員との付き合いが薄い』と述べるなど、必ずしも積極的だったわけではない。それが自ら党所属議員らに電話をかけて高市氏支持を呼び掛けるほど熱心になった理由の一つは、8月下旬の段階から『本気で勝ちにいく』と述べていた高市氏の決意が伝わったからだろう。実際、総裁選の討論会などでの高市氏の保守的な政策発信は、他の候補にも一定の影響を与えた」。
高市氏の今後に期待を大きくするが、阿比留瑠比論説委員兼政治部編集委員も書いているように「他の議員との付き合いが薄い」と人脈に難を覚える。官僚も含め、今後のためにも人脈作りに精を出していただきたい。そして、評論家の江崎道朗氏も自身のSNSで、「本格的な高市政権を目指すならば、今回は、党務に専念し、政権構想を煮詰める準備を進めた方がいいように思います」と言っている。私も同感である。今は焦らず、次を見据えて強固となる地盤作りをしていただきたい。
こうして岸田新総裁になり、次の衆院選挙はご祝儀選挙であると考えるが、議席は落とすことは免れないだろう。しかし、菅政権時のような激減ではなかろう。ただ、問題は来年7月の参議院選挙。参議院選挙は常に苦しい選挙戦を展開している。ここで勝利しなければ、衆参ねじれ現象をおこし、念願の憲法改正は、また一段と遠ざかる。岸田新総裁の手腕が問われる。
10月4日召集の臨時国会で首相指名選挙が行われ、宮中での認証式などを経て岸田内閣が発足する。今後の岸田内閣に期待するのは、組閣の閣僚人事もさることながら、近々の課題であるコロナ対策をはじめ、経済政策、安全保障政策、皇位継承問題、そして憲法改正をどのような方向性で進めようとしているかである。目的を明確化し、これらにどのような指針を示すのか、楽しみである。ましてや経済政策において「再分配」を唱える岸田氏が財政出動をさせ、その金の使い方をどうするかは良くない方向で目が離せない。そのためにも、日本維新の会や国民民主党がしっかりと野党の働きを示すよう、期待する。建設的でない、文句ばかりの立憲民主党はもういらないし、日本の国益にならない。
9月29日、自民党総裁選で岸田文雄前政調会長が新総裁に選ばれた。
まずは、菅義偉首相については、首相就任後、1年余りにわたり、コロナ対策をはじめ、デジタル庁、安全保障環境、皇位継承問題など、日本にとって、とても重要な案件を、日本が歩むべく道に方向性を示してくださり、心から感謝を申し上げたい。そして、お疲れ様でした。
今朝の産経新聞にとても大切で参考になる記事が多いので、所々、引用させていただきたい。
今回の総裁選は、政策通の4人が、激しい論戦を繰り広げ、とても良い総裁選であったと感じた。その中でも、高市早苗前総務相、そして、私とは考え方は違うが野田聖子幹事長代行には、堂々と自分の政治信念を貫き、持論を展開し、立派に戦い抜き、政治信念を曲げた河野太郎ワクチン担当相と大きな差を良い方に感じた。
野田氏は、リベラル色は強いが、しっかりと政策論争ができるし、野田ファンが多いということも納得できるし、実感できた。
高市氏は次につながる敗戦でもあった。特に、本命視されていた河野氏の得票を、議員票で28票も上回ったのは予想外だった。また、結果報告会に出席した安倍晋三前首相が「私たちは高市氏を通じて、本来自民党はどうあるべきか、しっかりと訴えることができた。他の候補にも影響を与えた」と語り、高市氏も「私は歩みを止めない。政策を磨き上げ、また次に向かって一緒に歩んでくださることをお願いする」と語った。次へと望みを繋げたのはとても大きい。
私は、今回の総裁選に当たり、次の論点に注目していた。
①コロナ対策
②経済政策
③安全保障政策
④皇位継承問題
特に「皇室問題」は日本国の一丁目一番地。「男系男子」による皇位継承であるべきで、先例のない「女系天皇」はあってはならないというのが、私の考えである。以前にも書いているが、皇位継承問題で大事にしなければならない原則があり、それは「①先例②男系③直系」である。この3つはどれが欠けても皇室の歴史は語れない。そして、大事なのが順番である。故に、歴史を守る方法は先例から探すべきなのだ。このことは、今後、とても重要なキーワードになるので、読者の皆様の頭にもしっかりと入れておいていただきたい。
新総裁になった岸田氏は9月8日の産経新聞のインタビューで、総裁任期中に憲法改正を目指すと強調。皇位継承は「『女系天皇』以外の方法で考えるべきだ」と明言した。私としては、少し安堵した。安全保障分野では弾道ミサイルを相手領域内で阻止する「敵基地攻撃能力」の保有を主張し、安倍氏と歩調を合わせている。
とはいえ、岸田氏はリベラル色が強い宏池会の流れを汲む。本日の産経新聞には「岸田派内には、こうした安保政策に懸念の声があり、保守勢力が警戒する選択的夫婦別姓への賛成論も根強い。対応を誤れば総裁選勝利の原動力となった保守勢力が離れる可能性がある」と。岸田派は46人にとどまり、党内第5派閥。岸田氏を支える勢力としては少数派である。派閥外にも協力者を募らなければ、政権は維持できないだろうと考える。そのためには、安倍・麻生両氏の協力を求めることは必要不可欠であろう。
まずは10月24日投開票の参院静岡、山口両選挙区の補欠選挙、そして11月までに行われる衆院選を勝利に導き、総裁選での訴えを着実に実現し、支持基盤を盤石にすることが急務となる。
一方の河野氏は「女系容認派」で、しかも、年金、安全保障などに関する曖昧な発言だけでなく、テレビ出演時などで見せたすぐキレる姿や高飛車で乱暴な口の利き方には、観ていて不愉快になったことだけでなく、平成24年の総裁選で、当初は本命候補だった石原伸晃元幹事長が、軽い発言で失速していったのと重なってみえた。そして、失速。ある意味、当然と言えば当然だが、全国の党員党友票が一番であることに違和感を覚えている。はたして、どういった種の自民党員なのか。リベラルなのか、保守なのか。構成員の種別を知りたい。
高市氏の総裁選出馬はある意味、「河野氏潰し」でもあり、「自民党保守路線の立て直し」でもあったのではないかと感じる。「阿比留瑠比の極言御免」での言葉を引用させていただくと、「選対本部に入るなど表立つことはせずに、高市氏を支援した安倍晋三前首相は数日前、周囲に語った。『高市さんは自分で運をつかんだ。彼女は私と勉強会をしていたことや、私にもう一度総裁選に出るよう要請して断られたことを、あえて(8月26日のBS日テレ番組で)明らかにした。それにより、行き場を失っていた岩盤保守層の支持を集めた』。それまでの安倍氏は、総裁選候補がリベラル派ばかりになることを危惧していた。直近の衆院選に向け、ただでさえ自民党から心が離れる傾向にあった保守層が、ますますそっぽを向きかねないからである。ただ当初は、高市氏が総裁選出馬に意欲を示していることについては『彼女は他の議員との付き合いが薄い』と述べるなど、必ずしも積極的だったわけではない。それが自ら党所属議員らに電話をかけて高市氏支持を呼び掛けるほど熱心になった理由の一つは、8月下旬の段階から『本気で勝ちにいく』と述べていた高市氏の決意が伝わったからだろう。実際、総裁選の討論会などでの高市氏の保守的な政策発信は、他の候補にも一定の影響を与えた」。
高市氏の今後に期待を大きくするが、阿比留瑠比論説委員兼政治部編集委員も書いているように「他の議員との付き合いが薄い」と人脈に難を覚える。官僚も含め、今後のためにも人脈作りに精を出していただきたい。そして、評論家の江崎道朗氏も自身のSNSで、「本格的な高市政権を目指すならば、今回は、党務に専念し、政権構想を煮詰める準備を進めた方がいいように思います」と言っている。私も同感である。今は焦らず、次を見据えて強固となる地盤作りをしていただきたい。
こうして岸田新総裁になり、次の衆院選挙はご祝儀選挙であると考えるが、議席は落とすことは免れないだろう。しかし、菅政権時のような激減ではなかろう。ただ、問題は来年7月の参議院選挙。参議院選挙は常に苦しい選挙戦を展開している。ここで勝利しなければ、衆参ねじれ現象をおこし、念願の憲法改正は、また一段と遠ざかる。岸田新総裁の手腕が問われる。
10月4日召集の臨時国会で首相指名選挙が行われ、宮中での認証式などを経て岸田内閣が発足する。今後の岸田内閣に期待するのは、組閣の閣僚人事もさることながら、近々の課題であるコロナ対策をはじめ、経済政策、安全保障政策、皇位継承問題、そして憲法改正をどのような方向性で進めようとしているかである。目的を明確化し、これらにどのような指針を示すのか、楽しみである。ましてや経済政策において「再分配」を唱える岸田氏が財政出動をさせ、その金の使い方をどうするかは良くない方向で目が離せない。そのためにも、日本維新の会や国民民主党がしっかりと野党の働きを示すよう、期待する。建設的でない、文句ばかりの立憲民主党はもういらないし、日本の国益にならない。