高市政権と反日メディア
2025.10.27
高市早苗政権が誕生した。公明党離脱、日本維新の会との連立など、難産の中での船出ではあるが、心から嬉しく思う。
その中で、10月24日の所信表明演説で、安倍晋三元首相が好んだ言葉を引用して「世界の真ん中で咲き誇る日本外交を取り戻す」と語った。また、安倍氏が提唱した「自由で開かれたインド太平洋」に関し「外交の柱として引き続き力強く推進し、時代に合わせて進化させていく」と訴えた。安倍外交を手本とし、回帰する姿勢を打ち出した。
また、「高市官邸」の人事も象徴的だ。事務方で外交・安保の司令塔となる国家安全保障局長に就いた市川恵一氏。「自由で開かれたインド太平洋」の構想作りに外務省幹部として関わった人物で、今月発令されたばかりのインドネシア大使就任を覆す異例の抜擢人事だ。
さらには、国家安全保障と核軍縮・不拡散問題担当の首相補佐官に、航空自衛隊の北部航空方面隊司令官や補給本部長などを歴任した尾上定正元空将を起用した。これに対し、自民党の長島昭久元首相補佐官は自身のXで「尾上将軍とは、私がワシントンで外交問題評議会の研究員をしていた約30年前に初めてお目にかかり、その戦略的思考に瞠目させられました。高市総理の信頼も厚く、素晴らしい活躍をされることと確信しております」と投稿した。
官邸の要は、安倍政権で国家安全保障担当の首相補佐官を務めた木原稔官房長官。自由民主党、維新の党(2016年3月末解散)、新党改革(2016年7月末解散)の3党と無所属の国会議員などから構成され、現在、自民党議員を中心に約100名の国会議員が参加している創生「日本」の事務局長なども務め、高市首相の絶対的な信頼をおける人物が官房長官を歴任する。その木原氏は24日の記者会見で「安倍氏が掲げた方針をもう一度、日本外交の柱と再認識する」と述べた。
そして、財務相に片山さつき元地方創生担当相を起用したのは注目に値する。片山氏は大蔵省(現財務省)出身で、平成16年に女性初の主計官を務め、自民総裁選では高市氏を推薦人として支えた。現在は、党内きっての積極財政派でもあり、高市新内閣の経済政策重視の姿勢に対する財務相としての手腕を期待する。また、財務官僚たちは片山財務相の後輩にあたる者達が多いはず。財務省幹部やりづらいだろうと思う。
その他にも注目人事は多く、また、政策も石破政権時では考えられないほどに、日本の将来の好転を期待する案件も多い。

しかし、一方では、まだスタートしたばかりの高市早苗内閣に対する反日メディアの反発がすごい。以下、産経新聞の記事を引用させてもらうが、朝日新聞は首相選出翌日の社説で「高市内閣発足急進的な『改革』姿勢への危惧」との見出しで、「外交・安全保障や憲法改正、外国人政策などでタカ派色の強い政策が並んだ。戦後の日本の歩みをさらに大きく転換させようとするもので、強い危惧を抱かざるを得ない」と断じた。いきなり「タカ派」のレッテル張りだ。そして社説は「少数与党となった自民の新総裁に就任した高市氏は、公明党の連立離脱もあり、首相指名を確実にするため、なりふり構わぬ多数派工作に走った」と続く。立憲民主などの野党も「なりふり構わぬ多数派工作」を続けていたことは朝日も記事にしていたはずだが、そんな矛盾もダブルスタンダードもお構いなしだ。要するに対決姿勢満々であり、読者にアピールするようにファイティングポーズを決めているのだろう。憲法改正や防衛、外交、スパイ防止法から外国人政策まで、高市氏が次々と打ち出す政策が反日メディアにことごとく反対されることは想像に難くない。政治資金収支報告書の不記載議員にいつまでも「裏金」のレッテルを張り、野党の不記載についてはほとんど触れないのもその流れだろう。閣内に7人の「裏金議員」がいるとばかりが報道され、その議員の政策や人物などには、ほとんど触れない。
幸いにも高市内閣の支持率は軒並み7割前後となり、岸田文雄、石破茂政権の発足時を大きく上回っている。「少数与党では限界がある」などと政権運営を一見心配するような声もよくあるが、そもそも衆参両院で与党を過半数割れさせたのは高市首相でなく、石破前首相である。この点もメディアはあまり触れたがらない。これが逆の順序であれば、「前政権の負の遺産」などと言っていつまでも尾を引かせたことだろう。要するに、何をしようが、何をやらないでいようが、今後の高市政権は批判されるのだ。「裏金議員」を政府に入れたら「反省がない」と言われるし、入れなくても「見せかけの改革」「派閥に配慮」などと言われるだけだろうから何をしても一緒である。支持率を見ても、国民は明らかに高市政権に期待している。その期待に応えられてしまい、高市氏の「クビ」を取れなかったとなると、反日メディアは今度こそ立ち直れないほどのダメージを受けるだろう。

歴史を遡れば、朝日新聞社は「十月革命」と呼ばれる体制刷新が起きる。昭和20(1945)年10月24日付紙面で「朝日新聞革新/戦争責任明確化/民主主義体制実現/社長、会長以下重役総辞職」と見出しをつけ以下のように伝えた。
「新聞の戦争責任については終戦直後より朝日新聞社内において種々真剣に議論が重ねられて来たが、今般村山社長、上野取締役会長ら本社最高首脳部側も慎重協議の結果、二十二日夜にいたり朝日新聞の戦争責任を明確ならしむるため社長、会長は自発的に社主の地位に退き、全重役は一斉に辞任することに方針を決定した。これとともに社内の民主主義体制を確立するために全従業員の総意を反映する機関を設置することになり、ここに朝日新聞は完全なる脱皮を遂げて、新しき日本の建設過程にあって言論機関が果たすべき重大使命に邁進することになった(後略)」。
朝日新聞は村山長挙社長が退いたあと、社員による役員選出というかたちをとって長谷部忠を社長にしたが、これは一種の組合管理に近いもので、戦後、朝日新聞の研修所長をつとめた本郷美則氏は、「朝日に赤い旗が立った最初」で「占領政策を推し進めたGHQにも革新派がいて、これと呼応して朝日新聞の左傾路線が始まったのである。

戦後、GHQによるWGIP(戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画)により今日至るまで、いびつな言語空間となっている。GHQは、放送、新聞、雑誌、書籍、映画、演劇、紙芝居等々、あらゆるメディアに対して徹底した検閲を行い、占領政策の目的と実施に不都合な情報や言論はすべて統制され、日本語の言語空間、情報空間が占領に好都合なように執拗に変形されていったのが事実である。その結果、自主検閲となってからの現在も、その反日たらしめる言語空間を継承しているメディアは少なくなく、こうした状況は、朝日新聞だけに限らず、毎日新聞、東京新聞、NHK、テレビ朝日、TBS、共同通信などの日本を貶めようと主張する反日メディアにおける偏向報道が執拗になされているのである。
戦後すぐにつくられた化石のような閉ざされた言語空間の中に、反日マスコミ、オールドメディアはしがみつきながら「自分らは正しい情報を流している」と自己検閲をしながら報道をし続けている。現在は、SNSなどの新しいツールを手に入れた国民は、メディアが放つ報道が本物か偽物かを見極められるようになった。印象操作だけのつじつまの合わない攻撃はもう通用しないし、これでは、国民はなびかない。

メディアは「ある一定の目的を持って報道」する。その「ある一定の目的」とは何か。それを遠くから眺め、客観的に見て、その「ある一定の目的」を見極めることが大切である。言えることは、反日メディアには愛すべき、守るべき「日本」はない。そうしたことを念頭に、これからの高市政権に対する報道を見極め、そして、絶妙に事実に対して、プロパガンダを刷り込んでくる報道、立憲民主党のような日本を貶めようとする反対勢力の言動、行動に着目し、客観的に物事を判断すべきであるのと同時に惑わされない正しい真実でもって考えていくことが必要であると思うのである。

参考資料:産経新聞、『反日メディアの正体』(上島嘉郎著)、『閉ざされた言語空間』(江藤淳著)
2025.10.27 10:01 | 固定リンク | その他
学校教育の在り方への疑問
2025.09.28
「中央教育審議会の作業部会が、デジタル教科書を正式な教科書と位置付ける案を了承した」。

先日、産経新聞に掲載された記事だが、令和12年度から学校の授業で使用される見通しというが、産経新聞にも書いてあったように、子供の学力低下につながらないか、不安を拭えない。

産経新聞によると「パソコンやタブレット端末で表示するデジタル教科書は、紙の教科書に比べて集中力が落ち、記憶に残りにくいという指摘がある。海外では、デジタル教材の推進国が学力低下などを理由に、紙の教材に回帰する動きも出ている」とあり、さらに「教科書は学びの中心だ。デジタル化により基礎基本の読解力などが低下したら本末転倒である。文部科学省は正式な教科書にする前に、学力に及ぼす影響を厳密に検証すべきだ。不安を抱えたまま、デジタル化を急ぐことには反対である」と結論づけている。大きく賛同する。
そして「中教審の作業部会が了承した案は、教科書の形態を、①現行の紙②デジタル③紙とデジタルの組み合わせ(ハイブリッド)の3種類とし、教育委員会が選択できるようにする―というものだ。これを受け、文科省は来年の通常国会で関連法案の改正を目指すという。少し前のめりになっているのではないか。デジタル教科書には英会話を音声で繰り返し聞けたり、算数などで図形を動かせたりして学習意欲を高めるメリットがあるとされる。一方、画面が動くために集中力が途切れたり、視力が低下したりする懸念もある。こうしたデメリットについて、作業部会が十分に検証したとはいいがたい。少なくとも小学校の低学年から導入すべきではないだろう。スウェーデンでは、2010年から教育のデジタル化を積極的に推進してきたが、近年の国際学力調査で成績が低下したことなどを受け、22年から紙の教材を重視する政策に転換した。フィンランドでも一部地域で、デジタル教材を紙に戻す動きがみられる。文科省は関連法を改正する前に、こうした海外の状況も分析し、子供の発達段階をふまえた制度にしてもらいたい。紙とデジタルのバランスも重要だ。全国学力テストを基にした文科省の調査では、家庭の蔵書量が少ないほど成績が低下する傾向があることも分かった。紙で読み書きすることの大切さを忘れてはならない」。(以上、産経新聞より)

知人の小学校教師によると、タブレットによる授業で、その操作のイライラからタブレットを壊す生徒もいるという。また、昨今では、発達障害の生徒や、発達障害のグレーゾーンの生徒も多くなっており、昔と今とでは子供の状態や在り方も変わってきている。私も小学生と毎月100人以上関わっているが、学年にもよるが年々、手間がかかる生徒が増えている。その中で、デジタル教科書がこうした子供たちの成長発展につながるとはとても思えないのである。

英語教育についても異論がある。「小学校の英語は必要ない」という意見は多数あるうちの私もひとり。
2020年度からの学習指導要領で英語が必修化された背景には、グローバル化する社会で「英語がコミュニケーションツールとして重要」であり、「国際理解を促進する」という目的があるためだと言うが、母国語の日本語を十分に学びきらないうちに英語教育をすることに、違和感を覚えてならない。
本当に必要な子供たちは、英会話スクールに通うし、そういう子供たちは多い。ただでさえ、国語の授業時間が減り、書写の授業も減り、ましてや、かきぞめを行わない学校も増えてきている現状において、公的な学校教育では、日本語教育に力を入れるべきであると考える。

この他、英語教育へのデミリットとして、英語の学習ばかりに注力すると、自国の文化や言葉が軽視される可能性を危惧するという意見もある。
小学校での英語学習は、将来を生き抜くための重要なスキルとなる可能性が高いが、すべての子供に同じように適用できるわけではない。家庭の教育方針や子どもの興味関心を考慮し、日本語の習得や文化への配慮も行いながら行うべきで、英語が必要だと考えるならば、海外留学をすべきである。本当に英語をマスターするならば、社会生活の中で常にネイティブ英語に触れなければ本当の意味でマスターすることはできない。

数学者・藤原正彦の著書『祖国とは国語』は、「国家の根幹は国語教育にある」という主張を展開している。著者は、日本の国語教育の衰退が日本社会全体の危機につながっていると警告し、すべての知的活動の基礎となる国語教育を再構築するべきだと説いている。
その主なテーマは、「国語教育絶対論」が本書の中核をなすテーマで、以下の5つの柱で構成されている。
1.国語はすべての知的活動の基礎:数学を含むすべての学習の基盤には、国語の読解力や表現力があると主張する。
2.国語は論理的思考を育む:筋道を立てて考え、表現する力は、国語の学習を通して身につくと論じている。
3.国語は情緒を培う:豊かな言葉に触れることで、繊細な情緒や感情が育まれるとしている。
4.祖国とは国語である:祖国とは単なる血や国土ではなく、文化、伝統、情緒といったものが内包された「言葉」そのものであると定義している。
5.日本再生の鍵:日本の再生にはまず国語教育を立て直すことが不可欠だと訴えかけている。
強く賛同するものである。

教育基本法は、教育の理念を実現するため、教育の在り方として、以下の方針を示している。
1.個人の自己実現の支援:個々の能力や創造性を最大限に伸ばし、自己実現を支援します。
2.文化の創造と発展への貢献:社会の文化を創造し、発展させることに貢献する態度を養います。
3.伝統と文化の尊重と国際社会への貢献:日本と郷土を愛し、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養います。

日本人として育っていくためにも国語教育の在り方を見直し、そしてさらに重視する必要があり、しいては日本の文化伝統の尊重を重んじる日本人の育成が不可欠で、その基礎たるものは小学校教育であると考える。
デジタル教科書、英語教育の件もそうだが、教育の本質と在り方を間違ってはいけない。
2025.09.28 11:55 | 固定リンク | その他
強まる中国の反日感情への懸念
2025.08.26
元駐中国日本大使の埀秀夫氏が、8月25日付の産経新聞に中国で「憎日」感情がさらに高まることが懸念されるとのコラムを寄せている。

「中国では7月、旧日本軍による南京占領を題材にした映画が公開された。誇張や非科学的主張が目立つこの映画を見た幼児が、世界地図上の日本を物でたたき続けたり、宝物であったウルトラマンのカードを引き裂いたりする動画がネットに氾濫している。さらに、中国当局は『抗日』キャンペーンの効果を上げるよう、旧日本軍の関東軍防疫給水部(通称731部隊)を主題にした映画の公開日程を9月18日(満州事変の発端となった柳条湖事件が起きた日)に変更した」と。そして、「すでに恐れていたことが起きている。江蘇省蘇州で7月末、邦人女性が襲われ負傷した。今からでも遅くない。中国への赴任は単身に限り、帯同している家族は可能な限り帰国するよう、日本政府は適切なアドバイスを出すべきである」と警鐘を鳴らしている。「愛国教育は以前からあったが、当時の中国は一部の軍国主義者(悪)と他の多くの日本人(善)を分ける『区分論』を、対日工作として戦略的に採用していた。当時多くの日本人がこの『区分論』に乗せられたのだが、『中日友好』に救われた気分になったのも事実で、これが70%超の対中親近感の背景にあった。だが、今の中国当局にそうした高等戦術はなく、日本人はすべて悪い式の教育や宣伝が行われている。『日本人学校でスパイを養成している』の類いで、児童を含む在留邦人が狙われるようになったゆえんだ」とも寄稿している。

中国に対して、その国の意向に沿うような過度に友好的・従属的な態度を取る石破政権の「媚中政策」が、中国の「憎日」感情を高める世論戦に転じてきるように思うが、皆さんはいかが思うか。

『「南京事件」の総括』という書籍がある。著者は松井石根大将の秘書を務めた田中正明氏。「南京大虐殺なんて嘘だ」と「謀略に決まっている」と感情的に決めつけている人もいるのだが、できるだけ一次資料に基づいて事実を見極めようとする、この本の内容は非常に説得的であり、少なくとも南京大虐殺はなかったと明らかに分かる。同時に私はその立場にいる。
藤岡信勝氏は、これだけ読めば、南京虐殺など無いことが明確に分かると言わしめた本でもあり、また、水間政憲氏によれば、本書が日本で出版されると同時に、中国政府の内部資料として中国の世界知識出版社が翻訳していたという。それだけ中国にとって驚異だったのであろうと指摘している。

過去にさかのぼるが、2015年10月にユネスコ記憶遺産に中国の「南京大虐殺文書」が登録された問題で、中国が登録申請の際にユネスコに提出したのは、資料の一覧と、資料を保管する7カ所の公文書館名を記しただけの目録だったことがわかった。南京文書の目録に一覧として挙げられた資料は十数種類。「南京市民の羅瑾が死の危険を冒して保存した16枚の写真」や、「大虐殺」の様子を書き留めた唯一の中国人とされる程瑞芳の日記も含まれているという。これらの資料について中国側は一方的に「虐殺の証拠」と主張していたが、多くは日本人学者らの調査によって否定されており、中国側の資料のずさんさが改めて浮き彫りになったものであった。
 世界において南京大虐殺の嘘が広く知らしめすその原動力となった故アイリス・チャン氏著『ザ・レイプ・オブ・南京』だが、その内容は嘘で塗り固められているとして1999年に発行された『「ザ・レイプ・オブ・南京」の研究-中国における「情報戦」の手口と戦略』(藤岡信勝・東中野修道共著、祥伝社)より微塵に反論されている。詳しくは、その書籍を読んでいただきたい。
 
私自身、『「ザ・レイプ・オブ・南京」の研究-中国における「情報戦」の手口と戦略』を読んだ時にも思ったのだが、そもそも初めて30万人虐殺が日本で主張されるようになったのは本多勝一著『中国の旅』(昭和47年)からである。しかし、注記として記されているにしか過ぎなかった。
 30万人虐殺説が大手を振るって歩き始めるのは、昭和57年に出た洞富雄(ほら・とみお)著『決定版南京大虐殺』からと言えよう。この頃になると、南京戦に参戦した将兵のほとんどが、社会の第一線を退いていた。それを待っていたかのように、南京虐殺を主張する声が強まっていったのである。しかし、ここまではまだ国内問題という側面が強かった。
 ところが、平成9年末に、アメリカで『ザ・レイプ・オブ・南京』が、そしてまた、南京安全地帯国際委員会委員長であったジョン・ラーベの日記が出版されるに及んで、事態は一変した。南京虐殺は国際問題へと発展したのである。かつて日本と言えば、ホンダ、トヨタ、ソニーを挙げて、優れた工業製品を思い出す外国人が多かったが、その時代、本と言えば「南京虐殺」を連想する外国人が、確実に急増したのである。
『ザ・レイプ・オブ・南京』は南京事件を題材にしながら、その狙いとしているのは、実は日本の文化と歴史の全面否定なのであった。著者のアイリス・チャンは「明治新政府が全市民の道徳規範として、武士道という武士の倫理を採用した」ことが、やがて日本軍に残虐行為を行わせることになったと論じ、つまり、南京の残虐行為の根底に、日本古来の武士道があると言う。戦後の東京裁判は、日本に戦争犯罪国家という烙印を押し、冷戦崩壊後の日本の歴史教科書は、日本の過去を一方的に断罪する傾向を強めていた。多くの嘘を事実として記したこの『ザ・レイプ・オブ・南京』は世界で大ベストセラーになり、この著書の内容を木端微塵に反論している書籍が多数発行されているにも関わらず、それを無視するかの如く、日本の嘘が世界に広まっていたのが現状であり、南京事件について間違った歴史認識が独り歩きをしている現状は下火になってきたかと思っていた。まして、欧米をはじめとする国々では、「戦勝国史観の見直し」が進められてきたにも関わらずである。

私自身の私見ではあるが、今回の中国の「憎日」運動について、さらなる歴史認識問題に対する世論戦を仕掛けてきたと思っている。その目的は保守層の分断。現に、石破首相の辞任問題をきっかけとする自民党内の分断(?)、そして世論の分断が目的のように思う。そして、それに呼応するかの如く、オールドメディアはこぞって分断を煽る報道を繰り返す。

もし、その私見がその通りだとすれば、石破首相はその分断を避けるためにも、早々に辞任すべきだというのが私の考えである。
「自らの運命は自ら決めるということは、孤独な存在であることを引き受ける強さがなければ成しえない。しかし、誰かのいいなりになって生存を全うすることが個人の人生においえも幸せなことでしょうか。あるいは国家においてそうした境遇に至ることが望ましいか」。

石破首相のエゴのために日本国が、日本国民が苦しみ、蟻地獄のように過去の間違った歴史認識によって貶められ、また世論戦に乗じていくことは看過できないのである。
2025.08.26 13:30 | 固定リンク | その他

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