過剰なメディア報道に思うこと
2025.04.28
時代は変化し、道徳的に当時は許されていた行為が、現在において許されないことも多く存在する。今では人権を尊重するあまり、過去の行為が今において裁かれ、謝罪する者も少なくない。その当時は、大きな話題にもならなかった行為が、改めてクローズアップされ、その人物達テレビ画面から消えていく。確かに、法に触れる行為であれば別であるかもしれない。しかし、過剰に反応する報道が目に付くし、どうして今の価値観で照らし合わせて、過剰に断罪し、報道しなくてはいけないのだろうかと思うこともしばしばある。
「遡及処罰の禁止(刑法39条)」という法律がある。過去の刑事事件を今の刑法に当てはめて裁いてはいけない法律で、過去の刑事事件を現在の刑法に当てはめて裁くことが許されないのは、主に以下の理由からである。
1. 遡及処罰の禁止(刑法39条)
•憲法(日本国憲法第39条)にも保障された重要な原則。
•ある行為が行われた時点では犯罪でなかったものを、後から法律を制定・改正して処罰することは、法の安定性や国民の法的予測可能性を著しく害する。
•人々は、その時点の法律に基づいて行動しているので、後から遡って処罰されることは不当である。
2. 行為時の法律によるべき原則(刑法6条)
•刑法第6条は、「犯罪の成否及び刑罰は、行為の時における法律による」と定めている。
•これは、遡及処罰の禁止を具体的に刑法で規定したものである。
•過去の行為は、その当時有効であった法律に基づいて判断されるべきであり、後の法律によって評価を変えるべきではない。
3. 法の安定性と予測可能性の確保
•もし過去の行為が後から制定・改正された法律で裁かれる可能性があるとすれば、人々は将来どのような行為が犯罪になるのか予測できなくなり、社会生活の安定を損なう。
•法律は、社会のルールとして明確に定められ、人々がそのルールに基づいて行動できるようにする必要がある。
4. 人権保障
•遡及処罰は、個人の自由や権利を不当に侵害する可能性がある。
•行為時に適法であった行為が、後になって犯罪とされ、処罰されることは、個人の法的安定感を大きく揺るがし、国家による恣意的な刑罰を招く恐れがある。
例えば、1900年には犯罪ではなかった行為が、2025年の刑法改正によって新たに犯罪と定められたとすると、この場合、1900年に行ったその行為を、2025年の刑法に基づいて処罰することは許されない。ただし、例外的に、行為後の法律が行為時の法律よりも軽い場合に限り、新しい法律を適用することが認められている(刑法6条但書)。これは、刑罰がより軽くなる場合にまで遡及処罰の禁止を貫く必要はないと考えられるためである。
このように、過去の刑事事件を現在の刑法に当てはめて裁くことは、法の基本原則である遡及処罰の禁止や行為時の法律によるべき原則に反し、法の安定性、予測可能性、そして人権保障の観点からも許されないのである。
上記にあるように、「もし過去の行為が後から制定・改正された法律で裁かれる可能性があるとすれば、人々は将来どのような行為が犯罪になるのか予測できなくなり、社会生活の安定を損なう」とあるのはもっともなことである。そして、「遡及処罰は、個人の自由や権利を不当に侵害する可能性がある」とするのも頷けることである。
昨今の報道は、週刊文春をはじめマスコミ各社がこぞって過去の行いや振る舞い、それも10年前後、それ以上前のことを過剰に、しかも徹底的に追及する報道を目にする。刑事事件ではないかもしれないが、そういった報道を目にするにつれ、たまらなく違和感を感じる。確かにやってはいけない振る舞いや行為を許すことはできないであろう。しかし、刑事罰でないかもしれないが、行き過ぎた報道は、いずれ読者を視聴者を無くす要因になると思ってならない。「オールドメディアは、世論を作っているのは我々である」と思っているかもしれないが、今では、SNSでも正しい情報を録ることはことができる。恣意的な報道と分かれば、メディアの信頼は失墜するのは自然の理。メディアの在り方が問われている昨今、今一度メディアは、おかれた役割が、今と昔では少しづつ変わっていることがあるということ自覚し、考え、報道してもらいたいと思う。いずれはしっぺ返しに遭うことを忘れてはならないと考える。
「遡及処罰の禁止(刑法39条)」という法律がある。過去の刑事事件を今の刑法に当てはめて裁いてはいけない法律で、過去の刑事事件を現在の刑法に当てはめて裁くことが許されないのは、主に以下の理由からである。
1. 遡及処罰の禁止(刑法39条)
•憲法(日本国憲法第39条)にも保障された重要な原則。
•ある行為が行われた時点では犯罪でなかったものを、後から法律を制定・改正して処罰することは、法の安定性や国民の法的予測可能性を著しく害する。
•人々は、その時点の法律に基づいて行動しているので、後から遡って処罰されることは不当である。
2. 行為時の法律によるべき原則(刑法6条)
•刑法第6条は、「犯罪の成否及び刑罰は、行為の時における法律による」と定めている。
•これは、遡及処罰の禁止を具体的に刑法で規定したものである。
•過去の行為は、その当時有効であった法律に基づいて判断されるべきであり、後の法律によって評価を変えるべきではない。
3. 法の安定性と予測可能性の確保
•もし過去の行為が後から制定・改正された法律で裁かれる可能性があるとすれば、人々は将来どのような行為が犯罪になるのか予測できなくなり、社会生活の安定を損なう。
•法律は、社会のルールとして明確に定められ、人々がそのルールに基づいて行動できるようにする必要がある。
4. 人権保障
•遡及処罰は、個人の自由や権利を不当に侵害する可能性がある。
•行為時に適法であった行為が、後になって犯罪とされ、処罰されることは、個人の法的安定感を大きく揺るがし、国家による恣意的な刑罰を招く恐れがある。
例えば、1900年には犯罪ではなかった行為が、2025年の刑法改正によって新たに犯罪と定められたとすると、この場合、1900年に行ったその行為を、2025年の刑法に基づいて処罰することは許されない。ただし、例外的に、行為後の法律が行為時の法律よりも軽い場合に限り、新しい法律を適用することが認められている(刑法6条但書)。これは、刑罰がより軽くなる場合にまで遡及処罰の禁止を貫く必要はないと考えられるためである。
このように、過去の刑事事件を現在の刑法に当てはめて裁くことは、法の基本原則である遡及処罰の禁止や行為時の法律によるべき原則に反し、法の安定性、予測可能性、そして人権保障の観点からも許されないのである。
上記にあるように、「もし過去の行為が後から制定・改正された法律で裁かれる可能性があるとすれば、人々は将来どのような行為が犯罪になるのか予測できなくなり、社会生活の安定を損なう」とあるのはもっともなことである。そして、「遡及処罰は、個人の自由や権利を不当に侵害する可能性がある」とするのも頷けることである。
昨今の報道は、週刊文春をはじめマスコミ各社がこぞって過去の行いや振る舞い、それも10年前後、それ以上前のことを過剰に、しかも徹底的に追及する報道を目にする。刑事事件ではないかもしれないが、そういった報道を目にするにつれ、たまらなく違和感を感じる。確かにやってはいけない振る舞いや行為を許すことはできないであろう。しかし、刑事罰でないかもしれないが、行き過ぎた報道は、いずれ読者を視聴者を無くす要因になると思ってならない。「オールドメディアは、世論を作っているのは我々である」と思っているかもしれないが、今では、SNSでも正しい情報を録ることはことができる。恣意的な報道と分かれば、メディアの信頼は失墜するのは自然の理。メディアの在り方が問われている昨今、今一度メディアは、おかれた役割が、今と昔では少しづつ変わっていることがあるということ自覚し、考え、報道してもらいたいと思う。いずれはしっぺ返しに遭うことを忘れてはならないと考える。
天に召される貴方へ
2025.04.14
故小島新一様
謹んで、天に召される貴方へ、心より感謝の言葉を述べたいと思います。
2009年11月に販売局から正論調査室へ異動となり、2016年7月まで、貴方と一緒の部署でお仕事をさせていただきました。その時、今までの部署とは違う、より日本の将来を憂う思いの熱い人達が集まっている部署に配属されたという強いカルチャーショックを受けたことを思い出します。貴方もそう思った人の中の一人でした。
今から十一年前。当時、靖国神社に取材に行かない産経新聞の話を聞き、逆に朝日新聞が靖国神社を頻繁に取材する現状に「こんなことがあってはならないでしょう」との思いと、翌年に終戦70年を迎えるにあたり、戦前戦中当時の曲折、偽りのない正しい歴史の真実話を伝えられる元軍人の方の話を直に聞けるのも最後の年かもしれないという危機感から、土光杯弁論大会と正論大賞贈呈式を主な仕事としていた自分は、「我が部署で戦後70年に向けてふさわしいイベントを行おう」と考え、「大東亜戦争を語り継ぐ会」の企画を思い付き、その話を夜中、編集作業に追われていた貴方に相談させていただきましたね。「ぜひ、やりましょう」と貴方は二つ返事でした。しかし、予算も無く、来場者収入で運営していかなくてはいけないことなどを話すと、その内容を誌面で紹介するといったことで、貴方は協力をしていただきました。私は、貴方のその男気に私は惚れました。「大東亜戦争を語り継ぐ会」の内容を誌面化することを良しとしてくれたこと、本当に感謝でした。このイベントを開催するにあたり、当時の室長から「赤字になるなら駄目だ!」と言われ、「編集とのタイアップ企画です」と言い切れたのも、貴方のおかげでしたし、後押しをしてくれたお陰でもありました。そのイベントが21回も開催できたことは、本当に有り難かったと同時に、貴方の熱い思いに感銘を受けたからこそやり続けられたのです。強い信念を持った貴方は、やるといったらやり通す気概に私は当時、惹かれていった記憶を思い起こします。
別冊正論15号「中国共産党 野望と謀略の90年ー『日本=侵略国家』論との決別」、18号「日中国交40年 汚辱と配信の系譜」を編纂した貴方は、秘話や封印されたその貴重な資料を紹介したその内容や、そのラインナップの素晴らしさに驚嘆したものでした。また、朝日新聞の偏向報道を特集した号は劇売れし、月刊正論史上初めて重版し、書店展開した際も、私のこの提案も快く受け入れてくれましたね。この結果は、誌上初めて実売率が100%近くになった号で、その重版した決断は良かったと思ったのも、貴方の協力と理解があったからでした。
その後、大阪に異動が決まり、大阪に赴任してからも、「大東亜戦争を語り継ぐ会」には携わっていただき、東京だけでなく大阪でもこのイベントを行った際には、多分にご協力をいただきましたこと、心から感謝申し上げます。特に、スポンサーになっていただいた社長に部下がしでかした不始末の処理のため、私は、その翌日、始発の新幹線で行ったにも関わらず、貴方は一緒に同行してくださいましたね。そして、その社長に一緒に頭を下げていただきました。どんなにか理不尽なことかと思ったことでしょうと、私は心の中で申し訳ない気持ちに駆られ、そして感謝を申し上げ、貴方はその後、その社長とのパイプ役を担っていただいたことは、本当に感謝しても仕切れない程のことでした。
その後、私は鬱になり、退職した私を慰労したいと、大阪から東京にまで足を運んでいただきましたね。その時、私はまだ完全には快復してはいなかったため、あまり楽しい話もできなかったかもしれませんでしたが、貴方のその思いは、有り難かったし、嬉しかったです。
体も快復し、個人事業主として活動する際、何をベースにするべきか考えた時、メインの習字教室の運営以外に、次世代のリーダー、次代を担う若者たちの育成、正しい歴史観・国家観を継承していくために活動する「寺子屋『玉川未来塾』」を立ち上げたのも、貴方から受けた影響が大きかったからです。貴方が大阪でおこなっていた次代を担う若者たちへの研修会の見学も快く受け入れてくださったこと、本当にありがとうございました。
貴方の思いを引き継ぐなんていう烏滸がましいことは言えませんが、日本の将来を憂う気持ちは貴方と同じです。したがって、自分の体が続くまで、寺子屋「玉川未来塾」の活動は継続していくことを貴方に誓いたいと思います。
貴方は人気者でしたから、多くの人に惜しまれる存在かと思いますが、私もそう思う者の一人です。そんな貴方を慕う端くれの一人ではありますが、天国から私の活動を見守り、見えない力を注いでいただき、影で支えていただけましたら幸いです。
長い闘病生活、お疲れ様でした。「仕事をしていないといらぬ余計なことを考えてしまう」と言って、闘病生活を続けながら、仕事をすることも選び、最後まで日本のことを憂いていらっしゃいましたね。最前線で歩み続けてこられましたから、お疲れになったことでしょう。どうぞ安らかにおやすみください。そしてまた会う日まで。さようなら。
貴方を心から尊敬する玉川博一より
謹んで、天に召される貴方へ、心より感謝の言葉を述べたいと思います。
2009年11月に販売局から正論調査室へ異動となり、2016年7月まで、貴方と一緒の部署でお仕事をさせていただきました。その時、今までの部署とは違う、より日本の将来を憂う思いの熱い人達が集まっている部署に配属されたという強いカルチャーショックを受けたことを思い出します。貴方もそう思った人の中の一人でした。
今から十一年前。当時、靖国神社に取材に行かない産経新聞の話を聞き、逆に朝日新聞が靖国神社を頻繁に取材する現状に「こんなことがあってはならないでしょう」との思いと、翌年に終戦70年を迎えるにあたり、戦前戦中当時の曲折、偽りのない正しい歴史の真実話を伝えられる元軍人の方の話を直に聞けるのも最後の年かもしれないという危機感から、土光杯弁論大会と正論大賞贈呈式を主な仕事としていた自分は、「我が部署で戦後70年に向けてふさわしいイベントを行おう」と考え、「大東亜戦争を語り継ぐ会」の企画を思い付き、その話を夜中、編集作業に追われていた貴方に相談させていただきましたね。「ぜひ、やりましょう」と貴方は二つ返事でした。しかし、予算も無く、来場者収入で運営していかなくてはいけないことなどを話すと、その内容を誌面で紹介するといったことで、貴方は協力をしていただきました。私は、貴方のその男気に私は惚れました。「大東亜戦争を語り継ぐ会」の内容を誌面化することを良しとしてくれたこと、本当に感謝でした。このイベントを開催するにあたり、当時の室長から「赤字になるなら駄目だ!」と言われ、「編集とのタイアップ企画です」と言い切れたのも、貴方のおかげでしたし、後押しをしてくれたお陰でもありました。そのイベントが21回も開催できたことは、本当に有り難かったと同時に、貴方の熱い思いに感銘を受けたからこそやり続けられたのです。強い信念を持った貴方は、やるといったらやり通す気概に私は当時、惹かれていった記憶を思い起こします。
別冊正論15号「中国共産党 野望と謀略の90年ー『日本=侵略国家』論との決別」、18号「日中国交40年 汚辱と配信の系譜」を編纂した貴方は、秘話や封印されたその貴重な資料を紹介したその内容や、そのラインナップの素晴らしさに驚嘆したものでした。また、朝日新聞の偏向報道を特集した号は劇売れし、月刊正論史上初めて重版し、書店展開した際も、私のこの提案も快く受け入れてくれましたね。この結果は、誌上初めて実売率が100%近くになった号で、その重版した決断は良かったと思ったのも、貴方の協力と理解があったからでした。
その後、大阪に異動が決まり、大阪に赴任してからも、「大東亜戦争を語り継ぐ会」には携わっていただき、東京だけでなく大阪でもこのイベントを行った際には、多分にご協力をいただきましたこと、心から感謝申し上げます。特に、スポンサーになっていただいた社長に部下がしでかした不始末の処理のため、私は、その翌日、始発の新幹線で行ったにも関わらず、貴方は一緒に同行してくださいましたね。そして、その社長に一緒に頭を下げていただきました。どんなにか理不尽なことかと思ったことでしょうと、私は心の中で申し訳ない気持ちに駆られ、そして感謝を申し上げ、貴方はその後、その社長とのパイプ役を担っていただいたことは、本当に感謝しても仕切れない程のことでした。
その後、私は鬱になり、退職した私を慰労したいと、大阪から東京にまで足を運んでいただきましたね。その時、私はまだ完全には快復してはいなかったため、あまり楽しい話もできなかったかもしれませんでしたが、貴方のその思いは、有り難かったし、嬉しかったです。
体も快復し、個人事業主として活動する際、何をベースにするべきか考えた時、メインの習字教室の運営以外に、次世代のリーダー、次代を担う若者たちの育成、正しい歴史観・国家観を継承していくために活動する「寺子屋『玉川未来塾』」を立ち上げたのも、貴方から受けた影響が大きかったからです。貴方が大阪でおこなっていた次代を担う若者たちへの研修会の見学も快く受け入れてくださったこと、本当にありがとうございました。
貴方の思いを引き継ぐなんていう烏滸がましいことは言えませんが、日本の将来を憂う気持ちは貴方と同じです。したがって、自分の体が続くまで、寺子屋「玉川未来塾」の活動は継続していくことを貴方に誓いたいと思います。
貴方は人気者でしたから、多くの人に惜しまれる存在かと思いますが、私もそう思う者の一人です。そんな貴方を慕う端くれの一人ではありますが、天国から私の活動を見守り、見えない力を注いでいただき、影で支えていただけましたら幸いです。
長い闘病生活、お疲れ様でした。「仕事をしていないといらぬ余計なことを考えてしまう」と言って、闘病生活を続けながら、仕事をすることも選び、最後まで日本のことを憂いていらっしゃいましたね。最前線で歩み続けてこられましたから、お疲れになったことでしょう。どうぞ安らかにおやすみください。そしてまた会う日まで。さようなら。
貴方を心から尊敬する玉川博一より
終戦80年に向けて⑩~沖縄戦から80年に想う
2025.03.25
今から80年前の3月26日、米軍のA.D. ブルース少将の率いる米第77歩兵師団が、午前8時4分、慶良間諸島の阿嘉島に上陸し、沖縄戦が始まった。
そして、沖縄県石垣島出身の伊舎堂用久大尉率いる「誠第十七飛行隊」に沖縄特攻作戦の先人として出撃を命じ、十機全機が米機動部隊に突入し、散華した。
伊舎堂大尉の特攻後、沖縄戦が激化するに従って、昭和20年4月6日、菊水作戦第一号が発令され、本格的に航空戦の大半を敵艦船への体当たり戦法に投入した。この菊水作戦は一号作戦から6月22日の十号作戦まで続いた。
昭和19年10月、フィリピン・マバラカット基地で海軍による神風特別攻撃隊が結成された際、大西瀧治郎中将が自ら「統率の外道」と称した「必死」の特攻作戦が沖縄戦で正式な作戦として展開されることになったのだ。特攻隊員の戦死者は、公益財団法人「特攻隊戦没者慰霊顕彰会」によると、海軍が4,146人、陸軍が2,225人の計6,371人に上る(ただし、資料によっては人数に差異があり、戦死者数は確定されていない)。そして、鹿児島県の知覧基地を始め、九州各地、また、当時日本が統治していた台湾など、多くの基地から出撃したが、本土最南端に基地があった知覧基地は、特攻作戦で439名と最も多く戦死している。
「靖國で会おう」「後に続くを信ず」との想いを胸に、国を親兄弟を恋人を故郷を護ろうと出撃し散華された若者たち。軍上層部への不信感を募らせながらも自らが命を懸けると決心して立ち上がった者もいただろう。「命を懸けてでも約束を守ります」とよく政治家が言うが、特攻隊員の方々の想いを知れば知るほど、そう簡単に「命を懸ける」なんて私は言えない。そして、二度とこんなことがあってはならない。
「特攻は戦後、『軍国主義の象徴』などと批判された。選ばざるを得なかったとはいえ、前途有為の青年の特攻に頼った当時の軍へ批判があるのは当然だろう。現代日本は特攻のような究極の戦術をとらずとも国を守るため、外交、防衛の手立てを講ずる必要がある。
特攻にさらされた米軍は大きな損害を被った。特攻は400隻以上もの米艦や多数の米軍将兵に損害を与え、米軍上層部に深刻な危機感を植え付けたことが戦後の研究で明らかになっている。特攻を『カミカゼ』と呼んだ米軍は、異常な戦術とみなす一方、特攻隊員には敬意を払う米軍人も多かった。特攻は、世界が日本人を強い存在とみなす一因となり、戦後の日本も守ってくれている。特攻に赴いた将兵一人一人にさまざまな思いがあったことを想像するとき、尊敬と悲しみの念が一緒に浮かんでくる。日本は、亡くなった隊員を忘れてはならず、国として顕彰と慰霊を厚くしなければならない」。
上記、産経新聞の記事を引用させてもらったが、終戦80年を迎える今年。昭和から平成、令和と時代が移り、戦後生まれの人口が全体の8割を超え、戦地に赴いた元軍人の方々が次々と鬼籍に入られ、戦争体験者、そしてご遺族をも急速に減っている中、戦争が「記憶」から「歴史」へと変わりつつある。そして、間違った史実が伝わっている現状を憂うとともに、多くの課題が山積する現代社会において、どのようにして英霊の想いを次代へ繋ぐべきなのか。今日の日本の平和は、先祖の尊い犠牲があったからこそ、そのことを我々は忘れてはならないのと同時に、先人の想いを次代へと伝えていく責任があると考えるのである。そして、この活動は、これからも続けていこうと思う。
そして、沖縄県石垣島出身の伊舎堂用久大尉率いる「誠第十七飛行隊」に沖縄特攻作戦の先人として出撃を命じ、十機全機が米機動部隊に突入し、散華した。
伊舎堂大尉の特攻後、沖縄戦が激化するに従って、昭和20年4月6日、菊水作戦第一号が発令され、本格的に航空戦の大半を敵艦船への体当たり戦法に投入した。この菊水作戦は一号作戦から6月22日の十号作戦まで続いた。
昭和19年10月、フィリピン・マバラカット基地で海軍による神風特別攻撃隊が結成された際、大西瀧治郎中将が自ら「統率の外道」と称した「必死」の特攻作戦が沖縄戦で正式な作戦として展開されることになったのだ。特攻隊員の戦死者は、公益財団法人「特攻隊戦没者慰霊顕彰会」によると、海軍が4,146人、陸軍が2,225人の計6,371人に上る(ただし、資料によっては人数に差異があり、戦死者数は確定されていない)。そして、鹿児島県の知覧基地を始め、九州各地、また、当時日本が統治していた台湾など、多くの基地から出撃したが、本土最南端に基地があった知覧基地は、特攻作戦で439名と最も多く戦死している。
「靖國で会おう」「後に続くを信ず」との想いを胸に、国を親兄弟を恋人を故郷を護ろうと出撃し散華された若者たち。軍上層部への不信感を募らせながらも自らが命を懸けると決心して立ち上がった者もいただろう。「命を懸けてでも約束を守ります」とよく政治家が言うが、特攻隊員の方々の想いを知れば知るほど、そう簡単に「命を懸ける」なんて私は言えない。そして、二度とこんなことがあってはならない。
「特攻は戦後、『軍国主義の象徴』などと批判された。選ばざるを得なかったとはいえ、前途有為の青年の特攻に頼った当時の軍へ批判があるのは当然だろう。現代日本は特攻のような究極の戦術をとらずとも国を守るため、外交、防衛の手立てを講ずる必要がある。
特攻にさらされた米軍は大きな損害を被った。特攻は400隻以上もの米艦や多数の米軍将兵に損害を与え、米軍上層部に深刻な危機感を植え付けたことが戦後の研究で明らかになっている。特攻を『カミカゼ』と呼んだ米軍は、異常な戦術とみなす一方、特攻隊員には敬意を払う米軍人も多かった。特攻は、世界が日本人を強い存在とみなす一因となり、戦後の日本も守ってくれている。特攻に赴いた将兵一人一人にさまざまな思いがあったことを想像するとき、尊敬と悲しみの念が一緒に浮かんでくる。日本は、亡くなった隊員を忘れてはならず、国として顕彰と慰霊を厚くしなければならない」。
上記、産経新聞の記事を引用させてもらったが、終戦80年を迎える今年。昭和から平成、令和と時代が移り、戦後生まれの人口が全体の8割を超え、戦地に赴いた元軍人の方々が次々と鬼籍に入られ、戦争体験者、そしてご遺族をも急速に減っている中、戦争が「記憶」から「歴史」へと変わりつつある。そして、間違った史実が伝わっている現状を憂うとともに、多くの課題が山積する現代社会において、どのようにして英霊の想いを次代へ繋ぐべきなのか。今日の日本の平和は、先祖の尊い犠牲があったからこそ、そのことを我々は忘れてはならないのと同時に、先人の想いを次代へと伝えていく責任があると考えるのである。そして、この活動は、これからも続けていこうと思う。